最近、息子の幼稚園の送迎が学生生活の似てることに気がついた。
あくまで私の感覚。
週5日、毎日同じ場所に向かい、ママ友や同じ幼稚園の保護者と挨拶と会話。
どの保護者の方も、意地悪な人は一切おらず、とても丁寧だし、コミュ力が高い人が多い。
幼稚園のママ友関係なんて、あくまで子どものコミュニティなので、
母親である私が、必死になる必要もないような気もする。
それなのに、時々ものすごく怖くなる時がある。
学生生活の時と比べたら、圧倒的に楽な環境なのに。
しかし、幼稚園という逃げられない環境で、自分がコミュニティに慣れて、なじんで、
この数年間を過ごさなければいけないという面では、とてもよく似ているなーと
ふと思った。
学生時代の私
私の人生で辛かった時期は、子どもが産まれた最初の一年間と、学生生活になる。
学生時代も小学校3年生くらいまでは、繊細な面もありながらも周りの友達と仲良く遊んで
それなりに学生生活を楽しめていたような気もする。
でも、小学校4年生あたりから、私の中で「学生生活=辛い場所」となっている。
中学生になっても高校生になっても大学生になってもずっと続いた。
これは、当時の私が思っていた訳ではなくて、今の私が思っていること。
当時の私は多分、色々なことに必死になっていて、そんなことに気がついていない。
しかし、当時テレビや音楽などで言われている「青春時代を謳歌しようぜ」的な文言が
私には全然ピンとこなかったし、その文言について行けない私は何かおかしいと思っていたし、
そのことに気がつきたくなくて、必死に青春時代を楽しもうとしていた。
しかし、必死になればなるほど「青春を謳歌する」状態から離れていたような気もする。
今でも、このようなフレーズを聴くと、自分の学生生活と全く重なっていなくて
時々、悔しい気持ちになる時もある(笑)
なんで、みんな青春を謳歌できるんだろう。
毎年行われるクラス替え、それに伴いクラスメイトや仲の良い友人も一年ごとに変わる。
先生も替わる。優しい先生ばかりでなく、厳しい先生もいる。
その中で、私という人間が、周りとなじんでいかなければいけない。
仲間はずれになんかなりたくない、変なやつだなんて思われたくない、それが私の行動の全てを
決定していく。
だから、それなりにちゃんとやれているはず。そう思っても不安がつきまとう。
また、女子特有のコミュニティの作り方や、ヒエラルキーも存在する。
それを批判したり、覆そうと思ってもいない。
それでも時々やってくる、仲間はずれにされるローテーションや女子たちのひそひそ話。
全てが全て私にとっては刺激になってしまう。
毎日が自分にとって、戦いだった。
でも、周りはそんな風には見えない。
環境の変化にもすぐ対応しているように見えるし、怖い先生だって気になっていないようだし、
女子の雰囲気やヒエラルキーなども気にせず関わっている。
ひそひそ話だって、《自分のことじゃないでしょ》と気にせずいられる。
そんな周りと自分とのギャップも、追加で刺激になってしまう。
こうして、全てに一生懸命だった私は、《青春》や《仲間との絆》なんて無縁な状態で
ここまできてしまった。
今の私と当時の私
その時は気がついていなかったけれども、当時は必死だった私。
悲しいけれども、これが私なんだ。
本当はみんなと同じように、毎日楽しく過ごしたいと思っているだろうけれども、
そう思えない過ごせない自分。でも、そんな必死な自分を周りに見せたくないから、
外側の私もこれまた、必死に頑張っている。
今の私から見てもめちゃくちゃ頑張っている。
当時の私には多分、心から信頼できる人もいなかったと思う。
周りの大人や親は、私の味方ではいてくれていたと思うけれども、私が自分の本当の
気持ちに気がつかないくらい必死だったから、打ち明けることもできていなかった。
そんな当時の私を癒やせるのは、今の私。
時々、思い出しては
《周りについていこうと必死に頑張っているんだね》
《あそこの女の子のひそひそ話が気になっているんだね》
と、共感している。
当時の私が頑張っていることを認めて、共感して、それが無駄ではないこと、
人と違っても良いということを少しずつ身体に伝えていく。
こうやっていくことで、今の私も認めてあげよう。
たかが幼稚園の送迎なのに、時々不安や怖さを感じている自分も仕方ない。
それが私なんだ。
と、思いながら今日もお迎えに行く時間。
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